豊後の三賢人、広瀬淡窓に学ぶ

豊後の三賢人と呼称されるのは、三浦梅園、帆足万里、そして広瀬淡窓である。
本日は、この広瀬淡窓(ひろせ たんそう)[1782.5.22〜1856.11.28]に
ついて触れたい。

広瀬 淡窓は江戸時代の儒学者で豊後(現在の大分県)日田市の人である。
「咸宜園」(かんぎえん)という名の私塾を立ち上げ、無慮3千人といわれる程
の門人が全国各地から集まったという。(当時、日本最大級の私塾)

また、弟の久兵衛は日田の掛屋で府内藩の改革を行い、藩主に蝋の専売制を薦めた。
因みに子孫は日田市長、衆議院議員広瀬正雄氏であり、その子息が現大分県知事の
広瀬勝貞氏であることも歴史の悪戯かも知れない。

広瀬淡窓は1853年から晩年まで「万善簿」(まんぜんぼ)という記録をつけた。
良いことをしたら白丸を一つ付け、悪いことをしたら黒丸を一つ付けるという方法
で、白丸ー黒丸の数を一万個にするというものであった。一度目を67歳の時に達成。

淡窓の指針に「敬天」があり、人間は正しいこと、善いことをすれば、
天から報われるという思想であった。

西郷 隆盛の愛した言葉であり、信条の一つであった「敬天愛人」も
淡窓の影響を強く受けていたのかも知れない。(筆者推測)