小林 虎三郎に学ぶ

小林 虎三郎(1828〜1877)は越後長岡藩士。

家禄百石の家に生まれた虎三郎は、17歳で藩校
「祟徳館」の助教を務めた。

23歳の時に藩命で江戸へ遊学。木挽町で西洋砲術
指南の塾を開いていた佐久間象山の門に入る。

当時の象山塾には、勝海舟橋本左内
吉田松陰(寅次郎)、同じ長岡藩士河井継之助も学んだ。
諸国から俊才が集まる中、吉田松陰(寅次郎)と並び
「象山の両虎」と称された。

戊辰戦争が勃発し、長岡藩の俊才河井継之助は藩の
軍事総督の任にあり、武装中立を以て新政府軍との
交渉に臨んだが容れられず開戦となった。

これに対し、虎三郎は非戦論を説き継之助と対立。

継之助の主戦論に敗れた虎三郎は、後の明治2年
新政府から長岡藩大参事を拝命したが戦火に焼かれ、
飢餓に苦しむ長岡城下は惨状を呈していた。

長岡藩の支藩に1万3千石の小藩ながら三根山藩があり、
藩主牧野忠泰
本藩の窮状を見かね、百俵の見舞米を本藩に贈った。

長岡藩にとって、まさに干天に慈雨というべき贈り物であったが、
大参事小林 虎三郎は
「この百俵を売った金を元手に学校を造る」と提案。

飢えに苦しむ藩内はこの提案に騒然となり、虎三郎を斬り捨てる
という者すら現れた。

虎三郎は激しく抗議する藩士たちに、
「百俵の米も、分けて食すればたちまち無くなる。わが藩の子弟が、
この荒廃した焦土の中から立ち上がれるよう、学校を造ろうではないか」
と説得した。

「国家百年の大計」に生きようという虎三郎の想いは
山本有三の戯曲「米百俵」により、広く国民の感動を呼んだ。

虎三郎の英断が後に山本五十六など有為の
人材を多く輩出することになった。